朝倉SS その1

--------------------
「あら、珍しいわね」

珍しいのはこっちも同じだ。

声だけで誰が呼びかけたのかを大体把握する。

そう、言われなくとも珍しいことなのだ。


今日は古泉も朝比奈さんも所用らしく、部室には顔を出しておらず、いつもは美術館に世紀単位で変わらぬ位置に展示されている彫像のごとく部室の片
隅に存在しているはずの長門すらいなかった。

ハルヒは部室に俺しかいないと見るや、横柄に飲み物を持ってくるよう俺に指令し、差し出されたお茶(俺には朝比奈さんのようにお茶を入れるスキルも
ないし、ハルヒのためだけにお茶を淹れる労力はエネルギーの無駄、反エコロジーであると考えたので、たまたま冷蔵庫に入っていたいつの物だかわか
らない缶ウーロン茶である)を一気に飲み干してから、やにわにPCを起動してしばらく適当にネットサーフィンをしていたが、それも飽きたらしい。

PCの電源を乱暴に落とすと(ただ電源スイッチ付近を数度殴りつけただけだが)、不機嫌そうに一言、

「今日は解散!!」

と宣言して一人でさっさと帰ってしまった。

昼過ぎから降り出した雨が、放課後になっても止む気配を見せず、未だに降り続いていたため、当然のごとく俺の折り畳み式傘はハルヒに強奪されてし
まっていた事実を思い返しながら、こうして俺は一人、校門でため息を付いていたのだが。

何が珍しいんだ、と一応返してみると、声をかけてきたそいつ――朝倉涼子――は行ってしまう前と同じ屈託の無い笑顔を浮かべ、これまた屈託の無い
涼やかな声で返してくる。

「涼宮さん達と一緒じゃないなんて、珍しいね、って言ったのよ」

そうかよ。


緊張しているらしい。

自分でも驚くほど身体がこわばっていたが、表に出さないように声だけは冷静に返す。横柄になってしまうのはこの際仕方が無い。

放課後、という時間帯と朝倉涼子の笑顔は、いやがおうにも忌まわしい(と思う)事件を思い出させるからだ。朝倉の笑顔と手に光る刃。

それとも、思い出したのはその刃が自分の体内に埋め込まれる感触の方か。

「傘、無いんだよね? 入れてあげるから、よかったら一緒に帰りましょ? まだしばらくは止みそうに無いよ?」

笑顔を崩さないまま、傘を突き出す朝倉。

そいつは願っても無い提案だ。女の子(しかも、クラス一の美少女)と、一つの傘で下校するなんて、男冥利に尽きる。谷口辺りなら、それこそカバンの中
に折り畳み傘が入っていようがそれを忘れた振りをしてでも女の子と帰宅する事だろう。わ・わ・わ・わ〜すれた〜とかなんとか出鱈目な歌を歌いなが
ら。

だが、それも相手が朝倉涼子でなければだ。

「そんなに警戒しなくてもいいよ。今日はホントに偶然なんだから。」

…。

読まれているな。

というか、長門も含め、この自称宇宙人連中には隠し事など出来ない気もするんだが。

朝倉の言葉が終わるか終わらないうちに、雨は弱まるどころか、さらに激しくなってきたような気がする。


…まさかな、局地的な気象操作は、長期的には地球環境に悪影響があるとかなんとか長門は言っていたし…。

しかし、ハルヒが強奪した傘を今返しに来るというオーナインシステムの起動確率並みの奇跡が起こらない限り、俺に選択肢はなさそうだった。

奇跡の価値ってのはいかほどのものだろうね?


*  *  *



「大変なのよ、帰ってきたらいきなりなんだもの」

自分より背の高い俺に合わせるように少し捧げ持つように傘を差しながら、朝倉は楽しげに喋っている。
朝倉は女の子が持つにしては少し大きすぎる傘をこともなげに差しているが(おかげで俺もあまり濡れずにここまで来れているのだが)、こういう場合は、
男である俺が持つべきなんだろうな。などと朝倉に生返事をしながら思考してみる。

「ウチのクラスもいい加減よね、私がいなくなったあと、私の座っていたポストがずっと空位のままだったなんて。おかげで、帰ってきてすぐ元のポストに座
らされて、なんだかんだたまっていた雑務を全部こなす羽目になっちゃったんだから」

そう、朝倉は帰ってきた。いや、甦(かえ)ってきた、と言うべきだろうか。

あの時、俺を殺そうとした朝倉涼子は、確かに長門によって倒され、この世界から消滅したはずなのだ。
だが、朝倉は帰ってきたのだ。表向きは、カナダから。

それとも、あいつらの概念では、消滅の事をカナダとでも言うのだろうか。彼岸とか、黄泉とか、地獄とか。や、朝倉が地獄逝きかは知らないが。

ともかく、一度消滅したはずの朝倉は再び、以前と変わらぬ姿で教室に現れ、俺(とクラスメイト)を唖然とさせた。

ハルヒなぞ、より怪しさに磨きがかかったとか何とか、磨くようなもんでもなかろうが等という俺のつまらないツッコミは某無駄無駄吸血鬼の疾走さながら
に華麗にスルーしてしばらく嗅ぎ回っていたりしたのだが(無論俺を引きずりまわしながら)。

まぁ、長門が今のところは何も言わないので、とりあえず危険は無い、と考えてよいのだろうか。

「でも、残務処理で放課後居残っていたから、貴方とこうして一緒に帰っているわけだし、悪い事ばかりでもないのかな」

そうですか。

何がそんなに楽しいのか知らないが、朝倉は今にもスキップで走り出しそうなほど軽やかな足取りだ。今スキップなどされたら、取り残された俺は降り止
まない雨に洗い流されてしまうので御勘弁願いたい。

こっちは、朝倉に必要以上に接近された状態でさっきから生きた心地もしないので、むしろ制服を天然水で洗濯する方がマシのような気もしてきたが。

濡れた身体は拭けばいい。濡れた衣類は乾かせばいい。しかし、命は元に戻らないんだ。

あるはずのない腹部の傷跡に、無意識に手を置く。

何だか妙に喉が渇くな。空気は降り止まない雨にすっかり湿っぽくなっているというのに。

そうして辛気臭い雨の中を、ベトナム戦争に投入された、鬼軍曹仕込みのアメリカ海兵隊の行軍のような気分で歩く事十数分。

鬼軍曹が言うなら、誇り高いクソどもの行軍とでもいうのか、そいつはようやく終点のようだった。

今でも朝倉が前と同じマンションに(つまり、長門と同じマンションだ)住んでいるなら、俺と朝倉の取るルートは別々になる、つまりはここでお別れとなる
はずなのだが。

雨は全く止む気配を見せないが、ガマンしてここから先は走って帰るさ。

せっかくそう覚悟したっていうのに、朝倉はとんでもないことを言い出した。

「ねぇ、まだもう少し降りそうだし、私が誘ったんだもの、貴方を雨に濡れて帰らせるわけにはいかないから、どこか入りましょう?」

自分の肉体の一部なんだから、よっぽどのことが無い限り疑ったりはしないのだが(とはいえ、高校に入ってからの俺は自分の存在すら疑うような出来
事ばかり起きていて、大抵の事には信頼が置けなくなっている気もする)、わが耳を疑った。

何か今、とんでもない幻聴が聞こえたような気がするんだが。

「やだな、幻聴なんかじゃないよ。喫茶店でも入って時間を潰しましょう、って言ったの。ちょうど、気になっていたお店があるのよ、さあ」

問答無用。

朝倉は俺の手を引いて、というか、殆ど腕組みに近い格好で俺を引きずり、軽やかに歩き出した。

--------------------



その2
--------------------

「うん、一度食べておきたかったんだ、これ」

その、俺たちが向かい合って座ったテーブルに運ばれてきた一人分にしては大仰なパフェも含めて、眼前に繰り広げられている光景はどんな異次元な
のだろうか。

若い身空で夕方もだいぶ暮れて来た頃合だ、腹が空いていないわけではなかったが、思いとどまってホットオーレだけにしておいて正解だった。

自分が食べるわけではなくとも、さすがにこれだけの量の甘味料と脂肪分の塊がドカッと目の前に置かれたなら、自然胸焼けもしてこようというものだ。

差別的発言になりかねないのを覚悟の上で言うが、女という人種は、目の前に居る朝倉涼子こと、情報統合思念体の作り上げた対有機生命体コンタク
ト用ヒューマノイドインターフェース(だったか?)の一人(自称だが)を含めて、甘いものを目の前にすると、なぜこんなにも目を輝かせるのだろうか。

某ピクニックフェイスのデ…ふくよか系タレントはどうなんだろうな。

彼は男だが、テレビカメラさえ回っていれば女性顔負けに目を輝かすとは思う。しかし、本当のところはどうだろうな、などと自己の思考を自ら脱線させる
ようなマッチポンプじみた愚考を行いつつ、目の前の甘ったるい光景を眺める。

朝倉は心底嬉しそうに甘い塊の一部を掬い取っては、その可憐な口に運んでいる。

まったく、こうして普通に女の子らしい事をしていれば、本当に普通の年頃の娘にしか見えない。というか、とてもかわいらしい女性だとすら思えるのだ
が。

そういう意味では、ハルヒだって黙っていれば、いや、今の10分の1くらい控えめな性格にすれば、十分に美少女の部類だろう。

長門と足して2で割れば丁度いいくらいか。

…。

やはり、女性は朝比奈さんくらいのかわいさと奥ゆかしさが欲しいな。うん。

「結構クラスの女子の間では評判になってたのよ、ボリュームがあるのにとっても美味しいって」

そうなのか。

ハルヒに付きまとわれているうちに、俺はすっかりハルヒと同類の”アンタッチャブル”に分類されてしまっていたからな。

ずいぶん長い事、挨拶と事務的な必要事項の伝達以外で、女子を交えた会話をした記憶が無いな。

そう考えると俺の人生も日が翳ってきたものだ。

まぁ、男女のクラスメイト同士の会話で、パフェの話題など出るわけもないとも思うんだが。

「どうしたの?」

言われて、ようやく俺はずいぶんと長い間自己の思考に落ち込み、沈黙していた事に気付く。

「ふふ…食べたいの?」

なんですか?

俺は何一つ要求してないぞ。

そもそも、誘拐犯でもあるまいし、何一つとして交渉カードを持たない俺には何かを要求する権利など無いのだが。

「だって…、黙ったままじっとパフェを見つめてるから。」

そうだったか。

まったく別のことを考えていたんだが、たまたま視線がそこに固定されていただけだと思うぞ。

別に俺のことは気にせんでいいから、さっさとその高エネルギー体を片付けてくれないか。

「ん…仕方ないなぁ。一口だけよ?」

今まで見たことも無いような、いや、見たことがあるぞ、そう、まるでよからぬ迷案を思いついた涼宮ハルヒのように不吉な――そう見えるのは俺だけで、
世間では悪戯っぽいと表現するだろう――笑みを浮かべながらそう言った。

いや、だから、俺のことは気にするなと――



「はい」

俺の口元に、小さなスプーンいっぱいに載せられた、バナナとチョコペーストと生クリームとアイスがごっちゃになった物体を天使のような笑みを浮かべた
朝倉が差し出してくる。

まずい、この展開はアレだ。

その、いわゆるラヴァーズ、というか、バの付くカップルが、周りの痛々しいものを見るような視線にも気付かず、いや、むしろ見られているからこそなの
か、公衆の面前でやらかす、あの恥ずかしいアレではないか。

そういうのはむしろ、出来れば朝比奈さんにやってもらいたいことなのであって、なぜ一度殺されかけた相手にやられなければならんのだ。

いや、冷静に考えれば、朝倉はたぶんあのときのままなのであって、つまり、スプーンを俺の口に突っ込んでそのまま延髄までぶっすりと貫通させるつも
りなのではあるまいな。

それならスプーンより、ほら、パフェを乗せた皿にスプーンとセットで置かれていたフォークの方が適しているのではなかろうか。

「ほら、あーんして、ね? 早くしないと落っことしちゃう」

確かに、そもそもその小さなスプーンの上に、パフェを構成する要素の7割がた(載っていないのはコーンフレークとスポンジケーキくらいのものだ)を乗
せた朝倉の技量は目を見張るものがあるが、さすがに長時間その状態を維持できるものでは無いらしく、早くも溶けたアイスの流動に乗ったバナナの切
片ががバランスを崩し始めていた。

まさか、食べさせてもらうのに抵抗があるからといって、朝倉の持ったスプーンごと奪って食うというのは不可能だ。そんな事をすれば臨界に達したバラ
ンスが一気に崩壊し、テーブルの上にマーブル模様の花を咲かせる事は確実だ。

仕方ない。

男の本能には逆らえまい、美少女と間接キス等という誘惑に抗えはしまい、と自分を納得させたことにして、観念するように口をあける。

しかし、その逡巡がまずかった。

あけた俺の口に朝倉のスプーンの先端が到達する刹那、バランスが崩壊した。

「あ…」

こういうときこそ、宇宙人パワーとやらを見せて欲しいものだね。

スプーンの上に載っていたものは宇宙的不思議パワー(?)によって不可思議な動きをすることもなく、ニュートンのリンゴさながらに万有引力に引かれ
て落下する。や、普通に重力といえばいいのだが。

バナナの切片を含めた、落下物の7割程度はとっさに前に出た俺の口に受け止められたが、残り3割は哀れな捕食者の口の周りを(主に下唇から顎に
かけてだ)汚した。

ま、今はまだここにある命に感謝しつつ、口に入った物体を味わおう。

スプーンが突っ込んでくる事もなく、差し出されたパフェの大半は無事俺の口に収まったのだから。

うむ、空きっ腹にこの甘さは福音だ。

「あん、落ちちゃった…、もう、しょうがないなぁ」

いたずらっ子をたしなめるような少し困ったような表情を浮かべる朝倉。ほんと、実に普通な。

「ほら、拭くから、もうちょっとこっちに顔出して?」

これまた、普通にこの年頃の少女が使うのにふさわしいかわいらしい柄のハンカチを手早く取り出して、朝倉が俺の顔に手を伸ばしてくる。

反射的に顔を後ろに引いたのは、やはり朝倉という人物を警戒しているが故の無意識の回避行動だったのか、それとも、こういう、喫茶店に入ってから
――いや、学校の昇降口で朝倉と”偶然”出会ったときから――続いている、この80年代ラブコメチックな展開が気恥ずかしかったのか。

しかし、某飢狼格闘家よろしく俺が後ろに引く事を予測して一歩深く踏み込んでいたのか、それとも…。

脳裏に、思い出してはいけない、朝倉の”何か”が”伸びる”様が一瞬脳裏をよぎったような気がするが、ともかく、俺の頬と唇から顎にかけて付着した生
クリームとチョコの混ぜ物は手早く拭い取られ、結果として朝倉のかわいいハンカチを汚した。

なぜだかわからないが、ちょっと罪悪感を感じる。

洗って返す、と言った方がよいのだろうか。

朝倉は、汚れた部分を内側にして手早く、しかし丁寧にたたんでポケットにしまい(几帳面である。学級委員の雑務も、なんだかんだでてきぱきと片付け
ているのが容易に想像できる)、改めてスプーンを手に取った。

「はい、もう一口」

いつまでこの露出プレイにも等しい行為を続けるつもりなんだ朝倉。

「さっきのは落としちゃったから、もう一度ね」

さっきのは一部落下しただけで、俺は十分パフェを味わえたのだし、やり直す必要は無いような気がするんだが、それで朝倉の気が済むのならもう1度く
らいは付き合ってもいい。

というわけで、俺は種別不能な鳥の雛みたいに間抜けに口を開け、朝倉はその口にパフェ(さっき以上に見事な盛り付けだ)を運ぶ。

俺が咀嚼するのを、目を細めて眺めながら、

「おいしい?」

なんて訊いてきやがる。

ああ、おいしいともさ。

「よかったぁ」

朝倉は心底安堵したように胸の前で手を合わせ、へにゃっと顔を崩して笑った。

…目眩がした。

初めて見る、朝倉の笑顔。いつも浮かべている微笑ではなく、心の底からの笑顔のように、見えた。

--------------------



その3
--------------------

「ごちそうさま」

あれだけ大量にあった固形物が収まっていた容器を前にして、朝倉が丁寧に手を合わす。

宇宙人でも仏教に入信するのかね。

実は朝倉が全部平らげたのではなく、結局、3割くらいは俺の胃袋に収まったんだが。

まったく、女の子の手ずから口に運んでもらうのが、こんなに食物の味わいを変えるとは、今日初めて知ったよ。びっくりだね。

…いや、3割全部を朝倉の手で食べさせてもらったわけではないぞ。

思うに、朝比奈さんの淹れるお茶が美味しいのも、3割、いや、5割、まてまて、7割くらいは”朝比奈さんが淹れたお茶である”という事実によってなのでは
なかろうか。

たとえば、おなじ缶コーヒーであろうとも、朝比奈さんが笑顔で渡してくれる方が、ハルヒが仏頂面で乱暴に押し付けてくるのより美味しいに決まってい
る。

まぁ、ハルヒが(何の目論見も下心もなく)俺に何かくれるような事があったとしたら、それはそれで僥倖かも知れんな。

と、そこまで考えてようやく俺は重大な問題に気が付いたんだが。

改めて、目の前の朝倉の顔を見る。

朝倉は変わらず、何が嬉しいのか知らないがニコニコと微笑んでいて…ある意味、まったく思考が読み取れない。

そう、朝倉は何のためにこんな事をしている?

いったい何を目論んでいる?

朝倉にとって、俺は観察対象である涼宮ハルヒに劇的な変化を起こさせるトリガーでしかないはずだ。

事実、以前の朝倉は、表向きは普通に、というか実に上手に人と接していたとはいえ、実際にはハルヒの変化以外には何の興味もなさそうだった。そう、
俺の命にさえも。

では。

なぜ、こんなことをしている。

「……」

朝倉は表情を変えなかったが、代わりに、背景が色を失った。

…ようにみえた。

楽しかった遊園地が、閉演時間を迎えて、いっせいに照明が落ちるように。

錯覚だったのかもしれない。

「雨、上がったみたいだよ。」

朝倉は唐突にそうつぶやくと、伝票を手に立ち上がった。

見えている喫茶店内の風景は前と変わらず明るくて暖かそうな光に包まれている。

「ああ」

何故か喉が渇いて声が上手く出ない。

ずいぶん甘いものを摂取したからな、そのせいだろう。

すっかり室温に近付いてしまったホット(だった)オーレを一気に飲み干し、俺も椅子を立つ。

そのとき、俺は見たような気がした。

伝票の金額を確認しつつレジの方に向き直る朝倉の横顔が、ある意味、長門よりも感情の読みにくい朝倉の笑顔が、さびしげに見えたのだ。

…錯覚だったのだろう、これも。


*  *  *


雨は上がっていた。

朝倉の、俺を濡れずに家まで送り届ける、という任務(?)は、形は違えど全うされた以上、喫茶店を出たところでさっさと別れてしまってもよかったのだ
が、なんとなくそういう気分になれず、俺は朝倉と共に、朝倉のマンションへ向かっている。

朝倉が何のために俺を誘ったのか、その答えを聞きたい、という気持ちもある。

だが俺は、再度問いかける事になんとなくためらいを感じ、結果、喫茶店からここまで一言も発せず押し黙ったままだ。

あれだけ楽しそうにおしゃべりをしていた朝倉も、同じように黙ったまま歩いている。

空気が重い。

雨が上がったばかりなのだから、たっぷり水分を含んでいて本当に重いのかもしれないな。

確かに、あれは”あのとき”の朝倉だった。

表情一つ変わらない、外見は全く変わっていないように見えるのに、明らかに取り巻いている世界が”換わった”感覚。

やはり、朝倉は朝倉なのだ。

先ほどまでの朝倉が特別だったのであって、何の感慨も無いまま俺を殺そうとした、――いや、殺す、ではない。ただ、生命活動を停止させる、させよう
とした――朝倉こそが、”本当の朝倉涼子”なのだ、と。

背中を、腰の辺りから厭な感覚が這い上がってくる。背筋が痺れるような。

足取りが重くなり、隣をそれまでと変わらぬ足取りで歩いている朝倉から、わずかに遅れた。

それは――何らかの本能が働いたのかもしれない。

一瞬の間すらあったかどうか。

1メートルほど先を歩いていた朝倉の背中が、瞬きをする間にこちら向きに換わっており(それはページ順を間違えたパラパラマンガのようだった)、朝倉
の腕は俺の首筋――喉元に伸びていた。

そのまま…いったいどれほどの時間、俺は――俺と朝倉は停止していたのか。

肉体の感覚は既になく、周りの景色はもう、止まっているのか、それとも変わらず時間が流れていて、俺たちの時間だけが停止しているのかもわからな
かった。

俺は、朝倉の…顔を見た。

朝倉の顔には、何の表情も浮かんではいない。そう、笑みも、悲しみも、怒りも、戸惑いも、嘲りも、喜びも、期待も。

それはむしろ、

今まで感情を感じたことがなかった人間が、初めて心に立った感情の波を、表現する手段を見つけられない、

そんな貌(かお)だった。

「そう、それでいいの」

朝倉の発した声で、俺は長い長い停止状態から開放された。

いや、初めから何の束縛もなかったのだ。

俺の身体には何の異常もなく、喉元に突きつけられた朝倉の手には何も握られておらず、その指先が俺の喉を握り潰しているわけでも、なかった。

強いて言えば、その、あまりにも無機質過ぎる朝倉の表情が(マネキンだってもう少し愛想があるだろう)俺に動く事を許さなかったのかもしれない。

「気を許さなくていいのよ」

突きつけていた手をあっさりと下ろして、朝倉は言った。

いったい、なにが、いい、っていうんだ。

「今日のはほんの気まぐれ。私はね、あの時の私と何一つ変わっていない。涼宮ハルヒに大掛かりな変化を与える方法は、貴方を…殺す事が一番近道
だと考えてるし、今でも実行する気でいるわ」

じゃあ、なんで、今殺さない。

「もう少し効果的な方法を思いついてから、かな」

朝倉はまるで文化祭の出し物を話し合うような軽快な口調で言う。

そうかよ。

そんな事言われたら、こっちだってそれなりの警戒はさせてもらうぜ。

俺一人ならいざしらず、SOS団の連中がいれば、話は別だぞ。

負担をかけるのは気が引けるが、きっと長門が力を貸してくれる。

古泉だって、(力を借りるのはいささか不本意だが)アイツなりの怪しげな超能力とやらで加勢してくれるだろう。

無論、朝比奈さんの笑顔があれば、俺だって100人力、いや、1000万パワーだって出してやるさ。単位が変わってるが気にするな。

そして、ハルヒだ。

ハルヒはあんなヤツだが、団員の危機なら、それこそあいつの全ての力を総動員して、お前の凶行を邪魔しようとするだろう。

名誉顧問の鶴屋さんだって…鶴屋さんだって……鶴屋さんなら…豪快に笑いながらRPG-7でもぶっ放しそうだな。

「そうね。今のは冗談」

いや、単なる強がりのつもりだったんだが。

「うん。実際、貴方をいまここで殺そうとしても、無理ね。」

なぜ。

「あの時と同じ。長門さんが貴方を守るわ。あの時の繰り返し。同じ”殺害”という方法では成功の確率は低いわね」

今この瞬間にたとえば俺に危害が及べば、即座に長門が現れるってことなのか?

お前がそういうんだからそうなんだろうが。

だから、やり方を変える、てわけか。

「そうね、たとえば…」

今日のように?

「…あ。」

朝倉が動きを止める。

その顔には、まるで、いま唐突に何かを悟ったかのような、驚きの表情がかすかに浮かんで。

すぐに消え。

唐突に朝倉は無邪気な笑い声を立てた。

「なるほど、うん、そういう方向性も考えられるわね、そっか、ふふふふふ」

わけが解らん。

朝倉は年頃の女の子が、好きな人からプレゼントを受け取った時のように、嬉しくてたまらない、とでも言いたげに笑っている。

先ほどまでの、人外の雰囲気は跡形もなく消えていた。


*  *  *




本当に、いったいなのが嬉しいのだろう。

朝倉はうきうきと、感情そのままのような軽やかな足取りで前を歩いている。

雨に濡れた街路においては防水性の面でいささか頼りないローファーが、雨上がりの路面を叩き、そのたびに小さく水しぶきが舞った。

「ねぇ、私、なんで帰ってきたのかわかる?」

すっかり毒気を抜かれ、既に目的もわからないまま朝倉の後ろを無気力についてゆく俺に、スケート選手のようにくるりと半回転してこちらを向いた朝倉
が尋ねてくる。

短めのスカートが遠心力でふわりと翻り、朝倉のすらりと伸びた太ももがあらわになる。

うむ、健康的な色気、とでも表現しておくか。

ハルヒのどこか猫科の動物を思わせる危険なしなやかさとも、朝比奈さんの持つ丸っこい色気とも違う、年頃の少女だけが持つ瑞々しさとでも言おうか。

なんともオヤジくささ全開なんだが、すでに状況についてゆく気力も体力も使い果たし、まるでHP0になった仲間が納まった棺おけ(x2)でも引きずって、
敵の出現に怯えながら町を目指して歩く超有名RPGの主人公のような足取りになっている俺に、あんまり無茶な注文はしないでいただきたい。

おおかた、お前らのボスが生き返らせたりしたんだろう。

「ううん、はずれ。実を言うと、私にもわからないのよね」

朝倉自身にわからないのなら、ごく普通の一般人である(と古泉が太鼓判を押した)俺にわかるはずもなかろうが。

「うん…。長門さんが、事後処理として私は父親の転勤でカナダに行ってしまった、という風に情報操作をしたのはわかるの。でもね…」

ふと、朝倉は足を止めた。

なにも、水溜りの真ん中で止まる事はないと思うのだが。

白い色をした暗黒面が水溜りに映っているような気がするが、黙って目を逸らしておく。

「私は何事もなくカナダにいたの。あの日急に転校して、それからずっとカナダにいたのよ。」

いや、カナダに行ってしまった、という事にされたんだから、事実かどうかは別として、少なくとも事情を知らない人間はみなそう思っていたんじゃないの
か。

朝倉が何を言わんとしているのか、全く掴めないぞ。

「少なくとも、記憶は、私の記憶ではそうなっていたわ」

どうも話が難解すぎる。

自然と視線が下がって、水溜りに映る暗黒面が視界に入ってしまいそうになるんだが。

「私はまるで、消滅したのではなく、あの日からカナダでずっと生活していたかのようにそこに存在していた。そんな事はありえない。私自身、自分が消滅
する瞬間を記録…記憶しているのだから。」

…。

だが、朝倉はここにいる。

「じゃあ、現在の状態はありのままに受け入れるとして、いったい、誰がそんな事をしたのかしらね?。長門さんかしら?」

俺に聞かれてもわからないが、長門以外には俺の知る限りそんな事が出来そうな人物はいないんじゃないだろうか。

しかし、長門が自らの手で消滅させた人物を再生させる理由がわからない。

いや、俺だって長門の思考が読めるような超能力があるわけではないから、想像でしかないのだが、少なくともリスクが増えるだけでメリットはない、とい
う風な理屈で考える事は出来る。

「その通りよ。普通はそう考えるわね。だから、長門さんではない、と思う。だとしたら、いったい、私を呼び戻したのは誰?」

俺たちが知らない、別の勢力が何らかの目的を持ってそうしたのか。それとも。

朝倉は後ろを向き、再び歩き出す。

推理するためのピースが決定的に不足している状況で、これ以上この会話に意味があるとは思えなかったが、俺も朝倉の後を追って歩行を再開する。

いつの間にか、長門のマンションの前まで歩いてきてしまっていた。

「犯人は…涼宮さんかも知れないわね。」

なんだって。

朝倉の唐突な言葉に、自分でもがっかりするような間抜けなリアクションをしてしまった。後から反省会だな。

「貴方と涼宮さんが、この世界から一時的に消滅したあの日。その時存在していなかった私にはただ、貴方たち二人がこの世界から消えていた、という
事象しか知る事が出来ないけど、おそらく、貴方たちは涼宮さんが作り出した、新しい世界へシフトしていたはずよね。」

「………。」

「そこでいったいどんな出来事があったのはは知る由もないけれど…。貴方は涼宮さんに、なにかきっかけになるような事を言ったのではなくて?」

覚えてなどいるものか。というより、あれは、あの出来事は事故であり夢であり妄想であり現実逃避であり汚点であるところのトップシークレットだ。暴走
族との死闘の末昇天してしまった現場監督の童貞疑惑並みにトップシークレットだ。

「だとしたら…」

既に朝倉には俺の声は届かないのか。

というか、深海底に沈んだ沈没船の底にへばりついたフジツボ並みに発見困難な場所に葬り去ってしまいたい記憶を、なぜに朝倉にまでサルベージさ
れなければならんのか。

「私を呼び戻したのは…」

「じゃあな」

朝倉の言葉を無理矢理さえぎって、俺はきびすを返した。

とりあえず朝倉は家まで送り届けたし(最初、立場は逆だったはずなのだが)、俺がここにとどまる理由も義務もなかろう。

雨はすっかり上がってしまい、日もだいぶ暮れてきているというのに、空は喫茶店を出たときよりもむしろ明るさを増していた。雲の流れが速い。

「ねぇ、最後に一つだけ」

背後から呼び止められる。

振り返ると、朝倉はさっきと同じ位置で、たたんだ緑色の傘を持ってたたずんでいた。

「質問、答えてなかったよね」

何の質問だ。

「”なぜこんなことをしている”という質問。答えてあげる」

喫茶店で、俺が最後にした質問。か。まるまるはぐらかされたものだと思ってあきらめていたんだがな。

夕日の加減なのか、朝倉の表情は曖昧で読み取れない。

「私にも、どうして貴方を誘ったのかよくわからないんだけどね。でも、長門さん、特に最近の長門さんの貴方に対する反応は、少しだけ興味をそそられ
た事は事実。私も貴方という人物に興味を持ったのかも知れないわね。」

だから、色々な言動やしぐさを見せて、俺の反応を観察したってのか。

「うん、たぶんそういうこと。」

で、実験の成果は満足いくものだったかね。

「さぁ、どうかしら。いちいち過剰反応するから、こっちも試しがいはあったかな。」

こいつ、意外に黒い性格してるんじゃなかろうか。そのうち、複数の男を手玉に取るとんでもない性悪女になりそうな気がしてきた。

「そう? 私は、貴方以外の男に興味は涌かないんだけどな」

じゃあ、俺を弄ぶのか。面倒な女はハルヒだけで十二分に間に合っているんだ。勘弁してくれ。

「うん、それ無理。」

いつか聞いた、問答無用を意味する台詞。

「一度やると決めたら、行動に躊躇はしないよ私。もうしばらくサンプリングを続けさせてもらうから。よかったね、私が飽きるまでは、貴方を殺すのは中
止。」

そいつは、どうも。

じゃ、俺も朝倉の気が変わらないようにせいぜい面白い反応を心がけるとするさ。

「うん、そうしてくれると嬉しいな。だから…」

そこで朝倉は一旦言葉を切り、改めて俺の顔をまっすぐ見つめて、にっこりと微笑んだ。

「これからもよろしくね、キョン君」

…。

お前までそう呼ぶのかよ。



--------------------